練習帳

路上( mixologist2828.hatenablog.com )の下書きアカウント

In My Life- Beatles 和訳

忘れられない場所がある

きっと一生覚えているだろう。

変わってしまったところも、残ってしまったところも。

離れていった人も、ずっとそこにいる人もいる。

僕の大切な場所だった

 

昔の彼女、つるんでた友達、今でも思い出す。

もう死んでしまったやつもいるけれど

みんな大好きだった。

 

でもそいつらの誰一人、君の足元にも及ばないよ

湧き出ずる愛情を思えば

思い出だってなんの役にも立たない。

 

郷愁の温かい気持ちを忘れることはないけれど、それだけで、

人も思い出も過ぎ去ってしまう

もちろん折に触れて思い出すことはあるけれど。

 

これからの遠い未来を思えば

もっと君を愛さなきゃね

 

懐かしい気持ちだけは失わずにいれるけれど

人も思い出も過ぎ去ってしまう

今では時折、思い出に更けるだけ。

 

長い人生を思えば

もっと君を愛さなきゃね

 

There are places I'll remember
All my life, though some have changed
Some forever, not for better
Some have gone, and some remain
All these places had their moments
With lovers and friends, I still can recall
Some are dead, and some are living
In my life, I've loved them all

But of all these friends and lovers
There is no one compares with you
And these memories lose their meaning
When I think of love as something new

Though I know I'll never lose affection
For people and things that went before
I know I'll often stop and think about them
In my life, I love you more

Though I know I'll never lose affection
For people and things that went before
I know I'll often stop and think about them
In my life I love you more

 

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昔を思い出していると、LoveがいつのまにかAffectionでしかなくなっていることにショックを受ける。今の愛情(love as something new)だっていつかは新鮮さを失ってしまうかもしれないから、「もっと君を愛するよ(I'll love you more)」というしかない。

タイトルの"In my life"という表現。「僕の人生の中で 」というのは当たり前すぎる事実で、それをわざわざ言っている、ということを訳出するのがとても難しい。

最後のI love you moreはスルーしがちだけれど、よく見ないと何と比べているのか、なぜ比べなければいけないのかがわからない。普通のラブソングなら"I love you so"としてしまうだろう。

 

日記7月23日

  昔、というのは中学時代や高校時代、自分の中にはものすごく沢山のものがあるんだという感覚があった。いろんなものを読んでいたし、それは体系化された知識にはならずに雑多なまま胃の少し下あたりに溜め込まれていた。テレビも新聞もCDの歌詞カードも授業や教科書の欄外コラムまで、消化器官の能力を気にせずに摂取していた。入ってくるものに比べて、出ていくものは少なかった。その年代で交わされる会話は、所属していたラグビー部の掛け声と比べても、どれほど意味のあるものでもなかった。スマートフォンもまだ普及していなかったし、自分自身を人に理解できる形にして人にみせるやり方はまだ一つも知らなかった。世界の七割がたは自分自身の中にあった。

 

  そうやって自分の中に溜まっていたものは、整理してみるとそんなに多くの容量を食わなかった。ただデスクトップに、ダウンロードしたままに並べてあったからたくさんに見えていただけだ。実際、あまりに多くのファイルが気まぐれに名付けられていて、そのことに満足しながらも混乱してもいたのだ。少なくともそれらは使える状態でなかったのは確かだった。

 

  中央線の左側の窓越しに遠ざかる新宿の高層ビルがよく見える。帰りが遅くなって快速が終わってしまうと、総武線各駅停車は少し低い線路を走るから、この夜景を見ることはない。イヤフォンの向こうから聞こえる話し声は今日は一段と遠い。音量を上げ過ぎているのかもしれない。

 

  人と話す度に、自分の臓物を切り分けて差し出しているような気分がする。ものを書いてもそう。もう何もないよ、許してくれ。聴いて面白い話なんてないし書くに値する内容もない。整理されて取り出せるようになった俺の十年来のストックは、あまりにもあっけなく底をつきそうになっている。わけがわからない、覗き込んで混沌とした有様にたじろいだ時の方がよっぽど、辻褄が合っていると思えた。じきに身の回りの世界ももっとわかりやすく整理されていく。そうして自分ははなから複雑な関係性の中になどいなかったことが明らかになるのだろう。

 

  暑い。古い二階建の二階の天井近くは扇風機も夜風も誤魔化せない、濃度の高い熱気が沈殿していた。洗濯物をかわしてきた窓からの光が天井にあたり、火災報知器を青く照らしている。こんなに生ぬるい青色があるなんて思ってもみなかったが、それは確かに空気についている色だった。本当に、何も無くなってしまったら?それが大人になることなのか?

 

 

サマーウォーズ

  サマーウォーズの地上波放送を後半半分くらい見た。このアニメ映画は全く好きになれなかったが、考えさせられることは多かった。 

   俺は家族が苦手だ。もちろん自分の家族のメンバーは一人残らず大好きなのだけれど、「家族」という存在が苦手だ。家族であるというだけで何か特別な繋がりがあると思っているところが苦手だ。帰省する度に将来のことを聞かれるのも、定期的に連絡されるところも苦手、常にちゃんと三食を食べさせようとするところも苦手で、東京に来る度に俺と彼女のためにお土産を持ってきたりするのもちょっと苦手だったりする。

   サマーウォーズのテーマは大家族だ。真田幸村の時代から続く長野県上田市の由緒ある一族で、俺が見始めた時点からはその家族関係はもうわからず、長老であり家長である祖母と、中年の男女が数名づつ、主人公たち若者が数名、子供が数名。きっと核家族と個人化に対して大家族制度の復活を提案したいのだろう。家長が祖母なのは戦前の家父長制度を連想させないための工夫で、ジブリでも女系の描写が多いけれど、常套手段なのだろう。そういう表現的な問題以上に、女系の方がおおらかで家父長制の排除的な雰囲気を消せる。

   家族ベースの物語で一番割りを食うのが侘助という青年で、彼は一家の中で最も才能があり、コミュニケーションが不器用で、(才能があるかどうかはともかく)自分自身を想像させる。彼は過去に家族を飛び出し、(物語では再び戻ってくるが)最初の里帰りもうまくいかない。

   逆に主人公は自己主張が少なくて、(少なくとも観客からは)全員に同意されるような状況で初めて意を決して声をあげる。彼のように控え目で人当たりが良く、少し頼りない青年こそが、想定観客のマジョリティ(そして最後に活躍するという理想像つき)なのだろう。

   「人様に迷惑をかけるな!」「みんなでご飯を食べること」という祖母の言葉(これは真理として扱われる)や、マイルドヤンキーを中年にしたようなおじさんが圧倒的にいい人として描かれているあたりが、どうしても好きになれなかった。この家では絶対に過ごしたくないと思いながら終始見ていた。これは現代日本人の理想なのだろうか?つい最近までは一人前に独り立ちすることの方が大事じゃなかった?うまくいかない個人主義の揺り戻しの行き先は結局、家族しかないのだろうか?一番ぞっとしたのは、家族という生活基盤をベースにネットで世界中と連携する(そして世界を救う、しかし主な関心は家族を守ること)というスキームが現実的にとても上手く機能しそうなところだった。

  

無理な時

  どれだけダメな人生を送っていても、成功を掴む人のメンタリティを垣間見る機会があって、そういう時は大抵めちゃくちゃに調子のいい時なんだけれど、ふとこれが彼らの日常かと思い至って落ち込んでしまう。これが明日も明後日も昼間も夜遅く飲みから帰った後も続けなければいけない日常かと思うと、とてもじゃないけど自分には無理だと思ってしまう。正直、そんなに頑張らなくても食べてはいけそうだし、ひとつのことにそこまで執着するのなんて親を殺されでもしない限り無理だろうと思ってしまう。

  基本的に人は頑張ってる人の話ほど熱心に聞いてくれるし、最近どうしてるって聞かれても、自分に与えられた環境の10分の1ほども活動してないよと正直に言うしかないのが憂鬱でまたしばらく一人旅にでも出たいなとか考える。誤解してほしくないけれどそう思うのは家族や友人や仲間には最大限誠実でいたいと思うからで、旅先ではいくらでも嘘をつく。自分を探しても出会いを求めてもいなくて、ああいう場所ではいくらでも虚栄心を満たせて、心地よく挨拶して心地よく別れられる。本質的におれはそれで十分満足してしまうし、誰も俺に立派になれなんていう権利はないだろう?とか考えてしまう。

5年後くらいの自分がこっそり読むための記録

   立派な一流企業に就職して、徐々にちがう世界に住むようになってゆく、気の置けない友人たちと集まってたわいもない近況報告をつまみにひとしきり飲んだ夜。こういう集まりでは誰もが出会った頃の喋り方を思い出すようだ。それでもみんな終電を捕まえるのにも慣れて、3本分くらいの時間の余裕を持って、また集まろうね、と心から誓い合って別れて、一人で中央線に乗る。予定よりも早い電車に乗れそうだけれども、さすがにもう快速電車は走っていない。もう一段階の効率性と割り切りも、いつかは身につけてしまうのだろう。

  お気に入りのポップバンドを流し、隣にまでは漏れないように気をつけながら音量を上げる。この暮らしを始めて1ヶ月くらいで編み出した、寝過ごさないためのちょっとしたライフハックだ。溢れ出るエゴと万人に媚びるポップセンスに没入していると、何もかもが — 高校生の寮生活のような盲目な純粋さではなく、自らの来歴と立ち位置と趣味や性癖やなんやかんやが自分のストーリーの正しい位置に多かれ少なかれ収まっていくその時期に、確立しつつある自我が見つけた最も心地よい場所、そういった人たちから少しづつ遠ざかっているという事実さえ  ー ごくごく自然なことのように思えていた。

  明日の朝起きてみると、きっと世の中の全ての物質が、俺に焦燥感を思い出させることになるのだろう。きっと顔を洗うその一欠片の動作さえも満足にできない、いつも通りの日常が来るのだと、その事実に思い至ってもなお、今夜はこれでいいのだと思えたし、あたりがよく見えるようになってその記憶が汚されてしまう前に、その証拠を残している今は何にも増して意味のある瞬間だと思えた。

生活をたたむ

(3月25日に書いた文章)

 生活をたたむ時になって初めて、いかに生活するということが複雑な営みであるかを目の当たりにする。何を唐突に語っているのか、というと、引っ越しをしました。

 もともと急場しのぎに入居したシェアハウスに、もう三ヶ月も居座ってしまい、そろそろ潮時だと感じることが増えた。居心地は悪くはなかったけれどいいという訳でもない。やっていける、という程度。もともとスーツケース1つ分の荷物しか持ち込んでいなかったので、荷物をまとめるのも小一時間あれば十分だろうと踏んでいた。

 インターンを早退させてもらって、部屋を片づけ始める。想定通り荷物はそんなに多くはなく、(三畳に満たない部屋なので当然)薬局で2箱もらってきたダンボールも1箱目の半分で事足りそう。それでも、私はどう荷造りしていいかわからなかった。「洋服」や「本」といったように名前をつけて纏められるものはいいけれど、変換プラグとか、電球ソケット、木工用ボンドと木ネジ、目覚まし時計、ツボを押すやつ、5膳セットで買った箸の残り4膳と2合くらい余ってる米。どれも来たときにはなかったもので、生活の必需品(木ネジが必需品?)。こうして「その他」の紙袋ばかりが増えていった。

 この三ヶ月は図らずも極めてシンプルな生活をしていたと思う。それこそ「最小限生活」とか何とかタイトルつけてコンペに提出したいくらい。それでもこれだけの「その他」を蓄積しないと生活できない。まともな家にまともな年数暮らしていたらどれほどのあれやこれやを溜め込んでいくことになるかと思うと気が遠くなる。「住まい方」って、もっときれいに1枚の絵に描けるようなものだと勝手に思っていたよ。

やっぱり現実じゃだめ

  (1ヶ月ほど前に書いた投稿です)数日前、(それなりに容姿の整った)女がホストを刺して血まみれで煙草を吸っている写真を見た。そのような画像が出回っていると知って、わざわざ検索して見た。個人的にそういう写真作品や世界観にシンパシーを感じる部分があり、良いと感じてしまうかもしれないと心配しながら、一方で常識的な感性でもって気色悪いと感じるのではないか(そしてそれが自分の感性の凡庸さを証明するのではないか)とも心配していた。結局、その写真には全く心を動かされることはなかった。

  さっきまでいぬやしきの実写版を見ていた。特殊能力を手に入れた高校生が通り魔的に殺人を繰り返していた。そのシーンのカタルシスは、夕方のニュースの通り魔殺人事件とは遠く掛け離れていた。たとえその犯人が悲しい過去を背負った美少年であっても、それは悲惨なニュースという以外の印象は与えなかったとおもう。

  血まみれの女の写真は作品に求められるのとは違うベクトルに、リアリティがありすぎた。色もいかにもスマホといった感じでのっぺりしていたし、なによりそれをああだこうだ言うツイートが雰囲気をぶち壊していた。隣でルームメイトが見ているテラスハウスも気になって仕方がなかった。

  現実世界には雰囲気やエモさがない。現実世界には世界観が欠落している。私の視点は目の前の世界をストーリーにできるほど首尾一貫していない。現実はストーリーにならない。物語は誰かが彼の視点で語ってはじめて成立する。それも誰にも邪魔されず、彼の自意識やら承認欲求やらその他現実的で色味の調整されていないあれやこれやを一切排除できる強い没入感でもって語られなければならない。雰囲気もエモさもストーリーもない現実世界は単調で、散漫で、リアリティに欠けている。

 やっぱり現実じゃだめなんだ。