練習帳

路上( mixologist2828.hatenablog.com )の下書きアカウント

どうしようもない気分だ。ふわっと網をかけられて、これは動くほどに身動きが取れなくなるやつだろうなと思いつつ、どうしても今すぐに行かなければいけない場所があったような気もしている。触覚がふわっと感覚を失って、世の中のすべての物質から磁石で数ミリづつ浮いているような気分だ。

幸せになんかなりたくない。家族とか愛とか、頼むから言わないでほしい。恵まれてきたのはわかっているけれど、それでも逃げ出すことを拒む理由にはならないだろう?わからない場所に恐る恐る足をつけることが唯一残された生きる実感なのだ。誤解しないでほしい、全ての人の期待と信頼と友情と愛情に誠実でありたいと思っている。でもそうやって借金を返していくようにして人と関わることが苦痛なのだ。相手があなただからではないことは、わかって欲しい。むしろそれは救いだった。心配しないでほしい、普通の意味ではなく。気にかけないでほしい、という方が正しいかもしれない。野垂れ死ぬ自由はいつだって俺のものだ。

日記7月23日

  昔、というのは中学時代や高校時代、自分の中にはものすごく沢山のものがあるんだという感覚があった。いろんなものを読んでいたし、それは体系化された知識にはならずに雑多なまま胃の少し下あたりに溜め込まれていた。テレビも新聞もCDの歌詞カードも授業や教科書の欄外コラムまで、消化器官の能力を気にせずに摂取していた。入ってくるものに比べて、出ていくものは少なかった。その年代で交わされる会話は、所属していたラグビー部の掛け声と比べても、どれほど意味のあるものでもなかった。スマートフォンもまだ普及していなかったし、自分自身を人に理解できる形にして人にみせるやり方はまだ一つも知らなかった。世界の七割がたは自分自身の中にあった。

 

  そうやって自分の中に溜まっていたものは、整理してみるとそんなに多くの容量を食わなかった。ただデスクトップに、ダウンロードしたままに並べてあったからたくさんに見えていただけだ。実際、あまりに多くのファイルが気まぐれに名付けられていて、そのことに満足しながらも混乱してもいたのだ。少なくともそれらは使える状態でなかったのは確かだった。

 

  中央線の左側の窓越しに遠ざかる新宿の高層ビルがよく見える。帰りが遅くなって快速が終わってしまうと、総武線各駅停車は少し低い線路を走るから、この夜景を見ることはない。イヤフォンの向こうから聞こえる話し声は今日は一段と遠い。音量を上げ過ぎているのかもしれない。

 

  人と話す度に、自分の臓物を切り分けて差し出しているような気分がする。ものを書いてもそう。もう何もないよ、許してくれ。聴いて面白い話なんてないし書くに値する内容もない。整理されて取り出せるようになった俺の十年来のストックは、あまりにもあっけなく底をつきそうになっている。わけがわからない、覗き込んで混沌とした有様にたじろいだ時の方がよっぽど、辻褄が合っていると思えた。じきに身の回りの世界ももっとわかりやすく整理されていく。そうして自分ははなから複雑な関係性の中になどいなかったことが明らかになるのだろう。

 

  暑い。古い二階建の二階の天井近くは扇風機も夜風も誤魔化せない、濃度の高い熱気が沈殿していた。洗濯物をかわしてきた窓からの光が天井にあたり、火災報知器を青く照らしている。こんなに生ぬるい青色があるなんて思ってもみなかったが、それは確かに空気についている色だった。本当に、何も無くなってしまったら?それが大人になることなのか?

 

 

サマーウォーズ

  サマーウォーズの地上波放送を後半半分くらい見た。このアニメ映画は全く好きになれなかったが、考えさせられることは多かった。 

   俺は家族が苦手だ。もちろん自分の家族のメンバーは一人残らず大好きなのだけれど、「家族」という存在が苦手だ。家族であるというだけで何か特別な繋がりがあると思っているところが苦手だ。帰省する度に将来のことを聞かれるのも、定期的に連絡されるところも苦手、常にちゃんと三食を食べさせようとするところも苦手で、東京に来る度に俺と彼女のためにお土産を持ってきたりするのもちょっと苦手だったりする。

   サマーウォーズのテーマは大家族だ。真田幸村の時代から続く長野県上田市の由緒ある一族で、俺が見始めた時点からはその家族関係はもうわからず、長老であり家長である祖母と、中年の男女が数名づつ、主人公たち若者が数名、子供が数名。きっと核家族と個人化に対して大家族制度の復活を提案したいのだろう。家長が祖母なのは戦前の家父長制度を連想させないための工夫で、ジブリでも女系の描写が多いけれど、常套手段なのだろう。そういう表現的な問題以上に、女系の方がおおらかで家父長制の排除的な雰囲気を消せる。

   家族ベースの物語で一番割りを食うのが侘助という青年で、彼は一家の中で最も才能があり、コミュニケーションが不器用で、(才能があるかどうかはともかく)自分自身を想像させる。彼は過去に家族を飛び出し、(物語では再び戻ってくるが)最初の里帰りもうまくいかない。

   逆に主人公は自己主張が少なくて、(少なくとも観客からは)全員に同意されるような状況で初めて意を決して声をあげる。彼のように控え目で人当たりが良く、少し頼りない青年こそが、想定観客のマジョリティ(そして最後に活躍するという理想像つき)なのだろう。

   「人様に迷惑をかけるな!」「みんなでご飯を食べること」という祖母の言葉(これは真理として扱われる)や、マイルドヤンキーを中年にしたようなおじさんが圧倒的にいい人として描かれているあたりが、どうしても好きになれなかった。この家では絶対に過ごしたくないと思いながら終始見ていた。これは現代日本人の理想なのだろうか?つい最近までは一人前に独り立ちすることの方が大事じゃなかった?うまくいかない個人主義の揺り戻しの行き先は結局、家族しかないのだろうか?一番ぞっとしたのは、家族という生活基盤をベースにネットで世界中と連携する(そして世界を救う、しかし主な関心は家族を守ること)というスキームが現実的にとても上手く機能しそうなところだった。

  

無理な時

  どれだけダメな人生を送っていても、成功を掴む人のメンタリティを垣間見る機会があって、そういう時は大抵めちゃくちゃに調子のいい時なんだけれど、ふとこれが彼らの日常かと思い至って落ち込んでしまう。これが明日も明後日も昼間も夜遅く飲みから帰った後も続けなければいけない日常かと思うと、とてもじゃないけど自分には無理だと思ってしまう。正直、そんなに頑張らなくても食べてはいけそうだし、ひとつのことにそこまで執着するのなんて親を殺されでもしない限り無理だろうと思ってしまう。

  基本的に人は頑張ってる人の話ほど熱心に聞いてくれるし、最近どうしてるって聞かれても、自分に与えられた環境の10分の1ほども活動してないよと正直に言うしかないのが憂鬱でまたしばらく一人旅にでも出たいなとか考える。誤解してほしくないけれどそう思うのは家族や友人や仲間には最大限誠実でいたいと思うからで、旅先ではいくらでも嘘をつく。自分を探しても出会いを求めてもいなくて、ああいう場所ではいくらでも虚栄心を満たせて、心地よく挨拶して心地よく別れられる。本質的におれはそれで十分満足してしまうし、誰も俺に立派になれなんていう権利はないだろう?とか考えてしまう。

5年後くらいの自分がこっそり読むための記録

   立派な一流企業に就職して、徐々にちがう世界に住むようになってゆく、気の置けない友人たちと集まってたわいもない近況報告をつまみにひとしきり飲んだ夜。こういう集まりでは誰もが出会った頃の喋り方を思い出すようだ。それでもみんな終電を捕まえるのにも慣れて、3本分くらいの時間の余裕を持って、また集まろうね、と心から誓い合って別れて、一人で中央線に乗る。予定よりも早い電車に乗れそうだけれども、さすがにもう快速電車は走っていない。もう一段階の効率性と割り切りも、いつかは身につけてしまうのだろう。

  お気に入りのポップバンドを流し、隣にまでは漏れないように気をつけながら音量を上げる。この暮らしを始めて1ヶ月くらいで編み出した、寝過ごさないためのちょっとしたライフハックだ。溢れ出るエゴと万人に媚びるポップセンスに没入していると、何もかもが — 高校生の寮生活のような盲目な純粋さではなく、自らの来歴と立ち位置と趣味や性癖やなんやかんやが自分のストーリーの正しい位置に多かれ少なかれ収まっていくその時期に、確立しつつある自我が見つけた最も心地よい場所、そういった人たちから少しづつ遠ざかっているという事実さえ  ー ごくごく自然なことのように思えていた。

  明日の朝起きてみると、きっと世の中の全ての物質が、俺に焦燥感を思い出させることになるのだろう。きっと顔を洗うその一欠片の動作さえも満足にできない、いつも通りの日常が来るのだと、その事実に思い至ってもなお、今夜はこれでいいのだと思えたし、あたりがよく見えるようになってその記憶が汚されてしまう前に、その証拠を残している今は何にも増して意味のある瞬間だと思えた。